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日刊 温暖化新聞|あの人の温暖化論考
気候の不安定性を示す兆候が増すにつれて、抜本的で迅速な行動がこれまで以上に急を要するものになっている。だが、国際協調にとって最大の障害のひとつが、米国政府による議事進行の遅延と妨害である。その多くの土台にあるのは、「途上国に先進国よりも多くの温室効果ガス排出を許したら、途上国に『競合優位性』を与えてしまうことになるのではないか?」という恐れだ。この環境問題をめぐる動きにおいてさえも、「途上国は、工業化し『発展』するにしたがって、排出量を増加させる権利を有するべきだろうか?」という厄介な問いに対し、意見が一致することはないのだ。
「彼らにはその権利があるはずだ」という答えは一見、平等性の観点からも、「富める国は、いわゆる貧しい国々に要求する権利はない」という考えからも、筋が通っている。つまり、「私たち先進国も『発展』の恩恵を受けてきたのだから、途上国が私たちと同じ道をたどる権利を拒否することがどうしてできるのだろうか?」という考えだ。
この議論には2つの重要な欠陥がある。1つは、途上国の人々が先進国の通った発展の道をなぞることは、単に不可能なのだということ。すでに私たちの「発展」は多すぎるほどの地球の資源――二酸化炭素(CO2)を吸収する能力も含めて――を使い尽くしているだけでなく、途上国は資源や労働力を供給してくれるような植民地、搾取可能な「第三世界」を持っていないのだ。2つめは、平等に関する議論は、「発展とグローバル化は大多数の人々には恩恵を与えないどころか、そもそも一部の富裕エリートにしか恩恵を与えていない一方で、貧困の急増を引き起こしてきた」という事実を無視していることだ。後者の点は、米国政府の気候変動に対する姿勢の裏にある暗い現実の根底をなしている。フォーカス・オン・ザ・グローバル・サウスのウォールデン・ベローはこう語る:
ブッシュ政権が「中国とインドに義務を課していない京都議定書など遵守しない」と言い、中国とインド政府は「京都議定書を批准していない米国に、自分たちの温室効果ガス排出量の削減を言われる筋合いなどない」と言うとき、彼らは実際にはあきれた同盟を展開しているのだ。自国の経済エリートたちが自らの環境への責任をとらずに、他の国々にタダ乗りし続けているのを容認するという同盟だ。
ベローによれば、米国はCO2排出量の削減義務の代わりに、“自主的削減”という概念を推進するため、中国、インド、日本、韓国、カナダとともに、京都議定書に対抗する「アジア太平洋」パートナーシップを形成してきた。ベローはさらに、「この富裕なエリート層こそが、先進国が排出の割当量を超えている一方で、途上国は割当量をまだ満たしていないという超第三世界主義的な方針を打ち出しているのだ」と言っている。「新たな京都議定書の下での温室効果ガス排出の削減義務から、急速に工業化している主要な国々を免除するよう求めているのは彼らなのだ」と。
今日、先進国の消費するほとんどの工業製品と大部分の農産物は、途上国で作られている。グローバル企業は、途上国の原材料と安い労働力の恩恵を受けている。先進工業国では、賃金は高く、より枯渇している資源は保護されており、グローバル企業にとっての潜在的な利益はそれほど大きくない。そのため、彼らが発展するためには途上国への進出拡大が必須なのだ。そして、「西洋の人間が途上国に炭素排出を制限しろとは言えない」という考えの背後には、こうした企業の存在があるのだ。事実、エクソン・モービルのリー・レイモンド氏は数年前にあちこちの途上国に出かけていって「外国投資を誘致したかったら気候変動条約には参加しないように」とトップたちに警告したのだった。
この意味で、先進国の諸機関は、途上国に化石燃料に頼った輸出主導型の発展を押しつけることで、まさに「途上国の人々が何をすべきかを伝える」ことをしてきたのだ。政府の援助や海外直接投資、WTOやIMF、世界銀行の政策は、かつてない大規模なインフラ――巨大ダムや化石燃料による発電所、スーパーハイウェイ、輸送拠点――を途上国に押し付けている。一方、多国籍企業は、途上国の津々浦々まで、都会の消費者ライフスタイルを促進するイメージを浴びせている。もし気候変動に取り組むために途上国の温室効果ガス規制が必要ならば、途上国の人々に対して何をすべきだと言うのではなく、多国籍企業や国際エリート機関に対して「自分たちの短期的な利益のために、途上国を方向づけることはできない」と言うべきだろう。
経済のグローバル化のせいで、途上国の農村の暮らしや地元の市場が壊され、数百万人が退去を余儀なくされている。中央集中型の大規模エネルギー設備と輸出主導型の発展を推進する政策は、農村――食料安全保障がより高く、よりよい暮らしができる地域――から、広大なスラム街への大量移住を促している。スラムでは、生活の質は下がり、一方で資源の消費は増える。CO2排出量も同様だ。いまや、そこでの食べ物は何であれ(飢餓ぎりぎりの食事でさえも)包装され、輸送される必要があるからだ。
こうした同じグローバル化政策によって、大量の過剰貿易が引き起こされている。バター、ミルク、ジャガイモ、動物といった同じ製品が地球上を行き交い、その量はかつてないほど増えている。このシステムは効率化を進めるどころか、貧困、廃棄物、温室効果ガス排出量の増加を引き起こすことは避けられない。
西洋諸国にとって、化石燃料や他の天然資源の消費を早急に削減することは、理にかなったことである。また、先進国がCO2削減費用を負担することも理にかなっている。しかしながら、平等と正義の名の下に「途上国にはCO2排出量を増やし続ける権利がある」と論じることは、理にかなっていない。彼らの排出量のかなりの部分は、“私たち”が恥じるべきものなのだ。アフリカの最も肥沃な土地を使って、欧州のスーパーマーケットの棚に並べるための野菜を栽培するために排出されたものであり、私たちの作り出された消費者ニーズを満たすために、プラスチック製の安っぽい小物を絶え間なく生産する中国の工場から吐き出された煙である。私たちが自分でも十分に生産できる製品を大量に生産している労働搾取工場が排出しているものなのだ。
途上国のCO2排出量と貧困の両方を削減する最良の方法のひとつは、活力のある村落や小さな町を維持することによって、現在の分散型の人口パターンを強めることだろう。こうすることで、地域社会は社会的な結束や土地との密接なつながりを保つことができる。そうするための戦術的な方法は、途上国の農村部の人々(世界の人口のほぼ半分に当たる)に分散型の再生可能エネルギーを提供することだ。これはそれほど難しいことではない。あまり工業化されていない地域では、太陽、風力、小規模水力を使える可能性がとても大きい。こうしたインフラの導入費用は、途上国に対して提案されているような数千億ドル規模の――しかもそのほとんどが化石燃料消費を促進する――プロジェクトに比べてはるかに小さくて済む。農村での分散型再生可能エネルギーは、人々の物質的な生活レベルを劇的に改善するのにも役立ち、石油や他の再生不可能な資源への依存度を高めるスラムへ何百万もの人々が移住するという悲劇を防ぐことができよう。
ウォールデン・ベローが指摘しているように、「断固とした方向転換をするのに、途上国のエリートと中産階級に頼ることはできない。……温暖化との闘いは、先進国の進歩的な市民社会と途上国の大衆主導型の市民運動の連合が推進すべきものだろう」。
先進国の運動家たちはベローのメッセージに耳を傾けるべきである。
(2009年9月7日)
ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ
エコロジーと文化のための国際協会(International Society for Ecology and Culture, ISEC)設立者、代表
スウェーデン生まれの言語学者で、世界に広まるローカリゼーション運動のパイオニアとして国際的にも知られる。社会・環境問題の根本の原因を探り、より持続可能で公平な暮らしのあり方を模索し先進国と途上国で推進するISEC(本部イギリス)を設立。インド・ヒマラヤ山岳地方のラダックを訪れた経験をまとめた『ラダック 懐かしい未来』は、世界40カ国以上で翻訳されている。1986年には「もうひとつのノーベル賞」といわれるライト・ライブリフッド賞を受賞。最近ではケンブリッジ、オックスフォード、ハーバードなど世界の主要な大学や、ドイツ、スウェーデン、英国、米国の議会のほか、ユネスコ、世界銀行、IMFなどの国際機関や、民間企業での講演活動も行っている。