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日刊 温暖化新聞|あの人の温暖化論考
メンタルモデルを理解することの大切さ
気候変動の原因とリスクについて、科学の世界ではしっかりと合意が形成されている。だがそれとはまったく対照的に、世間では、混乱と「今のままで大丈夫だ」という自己満足が広がっている。なぜ、こうした大きな隔たりがあるのだろう? そして、なぜそれが問題なのだろうか?
民主主義の国では、専門家の意見だけではなく、一般の人々の意見も政府の政策に影響を与える。効果的にリスクを伝えるには、政策決定者と市民のメンタルモデル(物事の見方や行動に影響を与える心の中のイメージや仮説)を深く理解していなくてはならないのだ。
では、気候変動に関する人々の意見を形成しているメンタルモデルとは、主にどのようなものだろう? 複数の研究結果が、ある明らかな矛盾を示している。米国をはじめとする世界の国々では、大半の人々が気候変動について「聞いたことがある」とし、その対策を「支持する」と述べているのにも関わらず、人々の最大の関心事の中で、気候変動の位置づけは経済や戦争、テロよりずっと低く、大多数の人々が、化石燃料の価格を引き上げて温室効果ガス排出量を削減する政策に反対しているのだ。
ほとんどの人々は「気候変動が経済に悪影響を及ぼし始めたら、そのときに緩和政策を実行すればよい」と考える。しかし、人為起源の放射強制力に対する気候の反応がかなり遅いことを考えれば、この考え方は間違っている。
気候変動の「時間的遅れ」、「ストック」と「フロー」
「様子見」のやり方は、時間的な遅れがわずかしか発生しないシンプルなシステムではうまく機能する。例えば、やかんをかけたガスの火は沸騰を知らせる笛の音を聞いてから止めればよいが、これは「沸騰」と「笛の音」と「私たちの反応」の間に遅れがほとんど生じないからだ。しかし、排出量削減政策の実施から実際の排出量の減少、大気中の温室効果ガスの濃度の変化、地表面の温度上昇、さらには氷床、農業生産性、絶滅の速度の変化などへの影響に至るまでには、かなりの時間的な遅れが生じる。したがってリスクを緩和するには、さらなる被害が明らかになるずっと前に排出量を削減しておく必要があるのだ。様子見の政策が暗に前提としているのは、「気候とは概ね、短期間に反応が返ってくる一次線形のシステムであり、大幅な遅れや複数の自己強化型フィードバック・非線形性を伴った複雑な動的システムではない」という考えである。
言うまでもなく、気候学や非線形ダイナミクスを学んでいる人はほんのわずかしかおらず、そうした話題についての世間の理解も乏しい。しかしさらに深刻な問題は、ストックとフロー、つまり「蓄積」の概念についての理解があまりないことだ。「蓄積」は日常生活の中でよく目にする。例えばバスタブには、蛇口から入る水の量から下水管へ流れ出ていく分を差し引いただけの水が溜まる。だが、こうしたことを目にしているにも関わらず、人々はストックに出入りするフローとストックに蓄積される量とをうまく関連づけることができないという。むしろ多くの場合、パターン照合の経験則を用いてシステムのダイナミクスを評価する。システムのアウトプットはインプットと「同じようであるはず」、つまり「正の相関関係にあるはず」だと思い込んでいるのだ。
CO2濃度を安定させるために排出量はどうあるべき?
蓄積についての理解が乏しいと、気候変動の推論に深刻な間違いが生じる(グラフ参照)。著者はブース・スウィーニー氏とともに、マサチューセッツ工科大学(MIT)大学院生212人に、温室効果ガスの排出量、大気中の濃度、全球平均気温の関係を説明した文書を配った。非専門家を対象としたIPCCの文書「政策決定者向け要約」(SPM)からの抜粋である。そして参加者に、「これなら大気中の二酸化炭素(CO2)が安定するだろう」と思われる今後の排出量の動きをグラフに描くよう求めた。ストックとフローの構造を強調するために、参加者には今後大気中から除去されるCO2の正味量(海洋とバイオマスが吸収するCO2の正味量)を予測するよう指示した後で、大気中のCO2を安定させる排出量の曲線を描いてもらった。
気候安定化の課題
このグラフが示すように、大気中のCO2濃度が400ppm(2000年比で約8%増)まで徐々に増加し、その後2100年までに安定するシナリオについて考えよ。
下のグラフは、1900年から2000年にかけての人為起源のCO2排出量と、自然のプロセスによって大気中から除去されているCO2の現時点での正味量を示している。
- 上述のシナリオを前提に、今後のCO2正味除去量を予測し、グラフに描き入れよ。
- 上述のシナリオを前提に、今後の人為起源のCO2排出量を予測し、グラフに描き入れよ。
(参加者は最初に、大気中のCO2の蓄積について明確に説明しているIPCC発行のSPMから抜粋したものを受け取った。)
気候学や微積分学の知識がなくても正答は出せる。バスタブの例えを用いて、バスタブ内の水位は大気中に蓄積されたCO2の量を表すものとして考えれば、あらゆるストックと同じように、大気中のCO2の量はバスタブへのインフロー(CO2排出量)がアウトフロー(CO2の正味除去量)を上回る場合に増加し、インフローとアウトフローが同じなら変わらず、CO2が減少するのはアウトフローがインフローを上回ったときであることがわかる。参加者は、「人為起源のCO2排出量がCO2の正味除去量の約2倍であるため、バスタブは満杯になりつつある」と知らされていた。
しかし参加者の84%が描いた曲線は、蓄積の原則に反するものだった。排出量が以下に示された典型的な参加者のグラフ例どおりの道筋をたどれば、大気中のCO2は増加し続けるだろう。参加者のほぼ2/3は「CO2排出量が除去量を上回り続けても、大気中の温室効果ガスは安定するだろう」と主張したが、これは「排水より速いペースで水をどんどん入れても、バスタブは決して一杯にならない」と論じているようなものだ。大半の参加者が「排出量を増やすのをやめれば、温室効果ガスの濃度上昇も止まる」と信じている。「排出量が安定すれば気候もすぐさま安定するだろう」という間違った考えは、様子見の政策を支えても物理的な原則には反している。
気候安定化の課題に対する、参加者の典型的な回答
参加者は、今後の排出量と大気中のCO2量の関係を誤って認識している。オレンジ色の点線は、参加者が予測したCO2の正味除去量に基づいた、CO2量を安定させるための正しい排出量曲線である。
科学分野の教育もこうした間違いの予防にはならない。参加者の3/5が科学、技術、工学、数学の学位を取得しており、残りのほとんどの参加者が過去に経済学を学んでいる。30%以上が既に大学院での学位を一つ取得しており、その7割は科学、技術、工学、数学のいずれかの学位である。これを人口統計学的に見ると、企業、政府、メディアの各分野で影響力を持つリーダーたちと似通っている。
大切なのは人々の考えや行動を変えること
こうした気落ちするような結果を見ると、つい「政策は科学的な専門知識をもとに策定されるはずなので、一般の人々が気候変動の知識に乏しくても大した問題ではない」などと言いたくなる。多くの人は、この難題に取り組むために、1939年に科学者を招集してわずか6年で核兵器を開発したマンハッタン計画のような、技術的解決を求めている。
しかし、気候の問題はマンハッタン計画のようなやり方では解決できない。原爆は一般の人々には何ら役割を与えることなく、秘密裏に開発された。それとは対照的に、温室効果ガス排出量を減らすには何十億もの個人がそれぞれのカーボン・フットプリントを減らさなければならない。その手段には、「住宅の断熱化」「公共交通機関の利用」、そして何より「排出量削減策を実行するための法律の支持」などが挙げられる。人々の考え方や投票が変化すると、選出されたリーダーたちが科学に基づいて行動する際に必要な政治的支援が生まれる。人々の購買行動が変化すれば、企業は製品と経営のあり方を変えようとする。一般市民を無視することはできないのだ。
むしろ気候変動の課題と似ているのは、公民権運動だ。今と同じように当時も、変化を強く阻んだのは既得権だった。政界のリーダーも法律も、世論や草の根の活動に立ち遅れることが多かった。成功には、人々の考えや行動の劇的な変化が不可欠であった。
一般市民から気候変動の取り組みに対する支持を集めるのは、多くの点で公民権闘争より難しい。「人種差別は道徳的でない」と認めるのには科学は必要ないが、温室効果ガスの排出がいかに将来の世代に悪影響を及ぼすかを理解するためには、科学が欠かせない。人種差別の被害は誰の目にも明らかだったが、温室効果ガスの排出が引き起こす悪影響が目に見えるようになるのは、ずっと後のことなのだ。
いま、科学分野に求められていることは
科学界は、一般の人々の理解を確立する上で極めて重要な役割を担っている。まず、IPCCの「政策決定者向け要約」文書(SPM)はあまりに専門的で、人々のメンタルモデルを変えることはできない。IPCCはその研究結果を平易な言葉で公表すべきだ。第二に、必要なはずの明快さに欠けている。いわゆる「常識」と科学がぶつかると、人々はたいてい科学をはねつける。たとえ人々が「気候変動のリスクを緩和したい」と心から望んでいても、蓄積の基本概念を誤解し、「排出量を増やすのをやめれば、すぐさま気候が安定するだろう」と間違って信じていれば、「様子見」のやり方が賢明に見えるだろう。人々は、ストックとフロー、時間的遅れ、フィードバックなどといったダイナミクスについて、あまり直感的に理解できない。私たちに今必要なのは、人々が直感的にシステム思考を実践できるようになるための新しい方法である。バスタブの例えや、人々が蓄積のダイナミクスや政策の影響を自分で理解できる対話型の「マネジメント・フライト・シミュレーター」は、ほかの分野での有効性が証明されているため、気候変動においても役に立つかもしれない。第三に、気象学者は、心理学者、社会学者、その他の社会科学者らと手を組み、否定と絶望ではなく、希望と行動を育むやり方で、気候の科学を伝えるべきだ。そのために、科学者が厳密さや客観性を捨てる必要はない。信念を持つ人々が気候変動のリスクを緩和する政策のコストや利点について議論するのは構わないが、政策が物理的な原則に反するメンタルモデルに基づいていてはならない。
もちろん、さらに多くの研究や技術革新も必要だ。資金や優秀な人材は常に足りない。しかし技術さえあれば、気候変動が解決するわけではない。大変な努力の末に得られた気候科学の成果に基づいた社会政策をとるために、私たちは今、社会的、政治的変化のダイナミクスに目を向けなければならない。
(2010年8月31日)
ジョン・D・スターマン
MITスローン・ビジネス・スクール教授/システム・ダイナミクス・グループ・ディレクター
システム思考、組織学習、企業戦略のコンピューター・シミュレーション、非線形ダイナミクス理論を研究するシステム・ダイナミクスの第一人者。複雑なシステムにおける意思決定の改善を目指し、企業及び経済システムの「マネジメント・フライト・シミュレーター」分野を開拓した。今日の組織が直面するさまざまな課題と機会について多くの文献を手がけ、IBM教授庄、アクセンチュア・ベスト論文賞など数多くの表彰を受ける。最近では組織変革、サステナビリティ、市民の温暖化問題に関する理解度評価の研究を発表している。